今回の記事では、私が体験した感動する話を皆さんにお伝えしていきます。
つたない言葉ですので、なかなかうまく伝わらないこともあるかと思いますが、皆さんの寛容な心で見ていただいたらなと思っております。
では、記事を書いていきたいと思います。
中学時代
それは、私が中学校の時の母との物語です。
私の家族は基本的に動物を飼うことが許されず「ペットを飼いたい」と言っても怒られるだけでした。
私の母は厳しい人で、勉強勉強と毎日激しく言ってくる人でした。
勉強が特にできないわけでもなかったのですが、母の「勉強をしろ!」と毎日言ってくるのが嫌で嫌で、毎日反抗したり、ケンカしたりしていました。
小学校のころと違って、中学校では高校に行くときに「受験」がありますから、母の「勉強をしろ!」という言葉は、中学に入ってからさらに強くなっていったのを覚えています。
そうやってケンカしていくうちに、家の中の夜はとんでもなく嫌な空気というか、おじいちゃんおばあちゃんも孫を守ろうと入ってきて、家族全員が毎日嫌な気持ちになっていきました。
勉強はしましたが、どうしてもさぼり癖が抜けず、テストでいい点数をとっても次のテストはいい点を取れない。安定することができなかったのです。
当然母は当たり前のように怒ります。母は「一番の高校に行かないとダメ人間になる」と豪語していましたから、今考えるととんでもないことを言っていたなーと思います。
そして私は高校受験を迎えました。学力を考えると、県内二番目の高校がベストと思ってそっちを受けたかったのですが、母からの反対で県内一番の高校を受けることになりました。
不登校になってしまった
しかしその県内一番の高校受験を失敗してしまい、滑り止めで受けていた私立高校に行くことになりました。
しかし、なんていうか母から教え込まれたプライドが、滑り止めの高校に行っている自分を許せなくなっていたのです。
今考えると、母のことを嫌っていたとしてもその教え込まれたものはきちんと吸収していたのだなと、やはり親子なんだなと思い知らされました。
そしてある日、高校の体育の時間中にその高校を抜け出し、家に帰ってしまいます。
「とにかく、学校にいたくない」「落ちた自分が恥ずかしい」と思うようになり、その気持ちが強くなっていきます。そしてその気持ちが母への恨みへと変わります。
その日から母の話を聞くことは一切なくなりました。学校に行かず家にいると、母が「ごめんね。別な高校受けさせればよかった」と言ってくるのです。
もう私はその言葉にブチ切れました。「お前が、高校決めたんだろうが!」と激しく怒りをぶつけました。
外に出ることも段々恥ずかしく感じてしまい、高校生や同級生に会うのも嫌になってきました。
そして毎日家でのケンカが始まります。
もう当時は家から出るのができなくなったことですら、全部母のせいにしていました。
極端にいうと「今こうなっているのは、全部母が悪い」と思うほどでした。
昼間っから家にいて、好きなゲームをして、ゴロゴロする。
家の外には決して出ない。友達がきても居留守を使っていました。
そして、何もかもが嫌になって前向きになれる気持ちが全くなくなった時、母は私を無理やり外に出しました。
行った先が「カウンセラー」でした。わたしは反抗して、目の前で話を聞かないと駄々をこねて、結局話を聞かず返ってきました。
私は精神病扱いしたことに腹を立て、母を思いっきり攻めました。
そして更にグチャグチャになっていく家庭環境。もう家にいるのも嫌になってた時のことでした。
母が仕事から帰ってきたときに、猫を一匹持ってきたのです。
最初は「ん?」と思いましたが、猫を飼ってきたことに、素直に喜べないながらも、猫が気になってしょうがなかったのを覚えています。
しかも母いわく、2000円の猫だという。これには、思わず笑ってしまいました。
久しぶりに家の中に笑顔ができました。猫を通じてですが、母とも話せることができました。
猫が餌を食べる、寝る、こたつに入る全てが気になって、かわいく思えてしょうがなかったです。
猫の後をついて回るようになり、それにつれて少しですが外にも出るようになりました。
次第に母への怒りも消えていき、高校を受けなおすことを自然に考えるようになりました。
そして気が付いたら勉強をし直し始めていました。
今まで以上に、勉強をしている姿を見た母が家庭教師を呼んでくれました。
私は「いらない」と言いましたが「いいから」と強引に教えてもらうことになったと記憶しております。
そして、翌年一浪ですが県内一番の高校に受かりました。
母が中学校の時に、厳しかったことは当時の私からすると嫌でしょうがなかったのですが、私が不登校になってからの母の行動は「私のことを思ってくれた行動だった」と思えるようになっています。
考えれば、母は超がつくほどのドケチで家族で外食をしたのは記憶にあるのでも10回もないと思います。
母の口癖は「もったいない」です。好きなものを買ってもらったこともないし、服も買ってもらったことがありません。
食事も質素なものばかりで、誕生日も母の手作りの形の整っていないケーキが出るだけで、一度も買ってもらったケーキは出ませんでした。
そんな母が雄一奮発してくれたのは、友達が来た時だけ。それ以外は全然お金を使ってこなかったです。
ですから、母が家庭教師をつけてくれたり、猫を飼ってくれたりしたことは当時からすると考えられない事であり、母らしくない事だったと思います。
今になって思うことは、母が自分のためを思って、何とかしようと思ってお金を惜しまず私のためにお金を使ってくれたのだと思っています。
高校生の時にはそんなこと思ってもいなかったというのに、今になってそう考えるというのはいかに自分が未熟だったかということになりますね。
母が私に向けた感情をすべて理解することができませんが、ペットがダメだったのに自らペットを飼ってきてくれたこと、家庭教師をつけてくれたことには今では非常に感謝しています。
母に感謝するという感情が生まれるというのは少し不思議な感情でもあります。
少し照れくさいっていうか、恥ずかしさも出てきます。
そして、今年母と一緒に群馬の温泉に誘いました。
私はそこで、心に秘めていた思いをぶつけようと思ったのです。
温泉に行き、二人で部屋にいる時に旅館の人に頼んでいた群馬牛をサプライズで注文し、母と食べました。
そして、少し時間を置き用意していた手紙を読みました。
母が厳しくて嫌いだったこと、ケチすぎて嫌いだったこと、高校で不登校になったのも全部母のせいだと考えていたこと。でも、家で引きこもっていた時に猫を飼ってくれて嬉しかったこと、家庭教師をつけてくれたことが後々感謝の気持ちになっていったことを伝えました。
・・・母は泣いていました。そしてすべてをぶちまけた私も一緒に泣いていました。
泣く予定はなかったので、自分の涙にびっくりしたのを覚えています。
母と私は、純粋に旅行を楽しめたし過去のことも話せなかったのが話せるようになり、今まで蓄積した心のもやもやが取れたような気持ちになりました。
母も私と同様、心がスッキリしたようで見たことない爽やかさが顔に出ていました。正直怒った顔の方がイメージが強いので、違和感はあります。
しかし、母のこういう顔も悪い感じはしないなと思いました。
母と私の間には、いがみ合いがありましたが、今は母も私も素直に「ごめんね」と言いあえるような感じになっています。
あれだけ嫌いだった母をこのように感がられるようになったのは母の、私を大切にしている気持ちを感じ取れたからだと思います。
これからは母が生きている間は、できるだけ親孝行をしていきたいと考えています。
あなたの親にも感謝の気持ちをもって、できるだけ親孝行していきましょう。できればその時に、手紙で気持ちを伝えましょう。絶対感動してくれると思いますよ。
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